男子禁制!!ロッカールーム:第19回 閉門蟄居・ひきこもり=篠田節子

◇閉門蟄居(ちっきょ)・ひきこもり
 ベランダの戸も、廊下に面した玄関扉も開け放つのが、仕事前の儀式のようになっている。気密性の高いマンションなので、放っておけば空気が淀(よど)む。屋外の酸素を取り入れたところで、パソコンの前に座り、仕事にかかる。疲れてくると片付け物や掃除、アイロンがけ。ときには楽器を弾き、本を読む。

 決してパソコンにしがみついているわけではないのに、夕刻近くになると頭と体内がもやもやしてくる。もやもやが、わやわやざわざわに変わり、そうした焦燥感がぱたりと止(や)むと、今度は全身から気力が失われる。呼吸するのも億劫(おっくう)なくらいだるくて、蒲団(ふとん)に潜り込むしかなくなる。

 そう、最近、頻繁に目にする鬱(うつ)の方の手記やブログそっくりだ。鬱と違うのは、とにかく這(は)うようにしてでも外に出て、家から離れれば治る、という点だ。換気しても、体を動かしても、「自分の家」という空間にいる限り、どうにもならない。

 1日の大半を自宅で過ごせと言われたら、私はどんな豪邸でも1カ月と持たないだろう。馴染(なじ)み、環境の変わらぬ閉鎖空間では、容易に倦(う)み疲れ、感覚遮断の状態に陥る。

 夏場に、子供世帯と同居している高齢女性が、家族に気兼ねして、公園のベンチで過ごして熱射病に、という痛ましいニュースが伝えられた。しかし今になってみると、家族関係に起因するような理由づけは、記者の問題意識の産物ではないのか、という疑問が湧(わ)く。

 人間は飽きる動物だ。どこかに出て行きたがり、帰りたがる。真っ昼間の1日、自宅の馴染んだ光景、匂(にお)い、見飽きた顔に取り囲まれて過ごすことに、いくら高齢者とはいえ耐えられなかったのではないか。デパートの階段脇の椅子や、パン屋のイートインで、布袋を抱えてのんびりしているお年寄りの姿には「ご出勤」の趣があって、家庭に問題があるようには見えない。茶の間に居場所を定められるより、公園に緑陰と水飲み場が用意され、人々が忙しく行き来する繁華街に、ただで腰をおろせる空間を提供される方がありがたいのではないか。

 以前、ネパールの村に行ったとき、寒い季節ではあったが、女性達が山羊(やぎ)や鶏の駆け回る屋外で、家の外壁にもたれて、筵(むしろ)やセーターなどを編んでいるのを見た。編み物は室内の仕事と思っていた私は少し驚いたが、よく片付いた狭い家の中は、窓が小さいせいもあり暗くて手仕事などできそうにない。

 バリの先住民族の村でも、日常生活は、壁の外で営まれていた。女性が手仕事をしている4畳半ほどの明るいスペースは、タイル張りの高床で屋根はあるが、壁はない。足下の土間を豚が1頭走りぬけていった。とりあえず自宅だが、限りなく外界に近い。壁で囲まれている部屋は寝室だけで、こちらは、窓がなく真っ暗だ。地中海沿岸の村でも、わざわざ椅子を路地に出して、野菜の下ごしらえやレース編みをしている人々を見かけた。

 ひょっとすると、家とはその程度のものなのかもしれない。私たちが思っているような、自身のアイデンティティーにかかわる本来的な居場所というより、休養と繁殖に必要なプライバシーを確保するための巣に過ぎないのではないのか。

 光の強さや風の匂い、気温や風景がめまぐるしく変わり、見知らぬ人々が行き合う刺激的でストレスフルな外界と、壁に囲まれたぬくぬくと温かく湿った、薄暗い巣。正反対の環境を1日の中でリズミカルに行き来することで、人の正気は保たれているようだと、外出の叶(かな)わぬ締め切り直前の日々に痛感する。(作家)=次回は1月9日掲載

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