存続揺れる滋賀会館

【地下街、今や「原点」の3軒に】

 文化施設の廃止問題で揺れる大津市京町3丁目の滋賀会館地下で、花谷泰良さん(65)は30年、お客さんの髪を整えてきた。父親の代から続く滋賀会館理髪室。かつて結婚式場や図書館、商店が並んだ会館は、地域の生活を支える場でもあった。しかし、地下街の店は今や3軒。「仕方ないんかなぁ」。時の流れを見つめつつ、「でもやめられない。お客さんに迷惑かけられん」と、はさみを動かす。(新井正之)

【父親から店引き継ぎ30年/散髪屋さんの憂い】

 「会館ができるまで、店は県庁の1階にあって、父が職員や議員さんの頭を刈っていた。会館が建ち、結婚式場ができるというので、まず理髪店、美容店、写真店の3軒が地下街に入ったんです。」

 滋賀会館は1954年に開館。約1100席の大ホールでは数多くの芸術文化イベントが催され、図書館や結婚式場などもあった。

 開館当時の地下街は露店のように店が並び、狭い通路に人があふれるようなにぎわい。ネクタイ買って、散髪して、ついでに写真を撮って。そんなお客さんの流れがあったねぇ。その後、各店がブースに収まる形になり、何となくお客さんがのぞきにくくなった気がします。
 父から店を継いだのが30年前。そのころは県庁の職員も昼休みに来てたけど、今は減りましたねぇ。

 びわ湖ホールなど新たな文化施設が増え、舞台が狭く音響でも引けを取る会館大ホールの利用は減少。耐震強度の問題も加わり、08年秋に閉鎖された。地下街も07年に飲食店が消え、08年には花屋や魚屋など4店が店を閉めた。

 みんな突然、『来月で出ていくわ』とあいさつに来られて。「えーっ」と驚いてばかり。残ったのは最初から入っている3軒。原点に戻ったってとこです。

 県は今年度で会館を廃止する方針を打ち出した。廃止の対象はシネマホールなどの文化施設。商店はまだ営業を続けられる。会館の活性化策が決まった時点で方針を検討するとしている。

 去年3月、店の1年更新をした時、県の担当者から「このままいて結構」と言われてます。「出るときは言うべきこと言わな」というお客さんもいますけど、建物が古くなったのは仕方ないかなぁ、とも思うし・・・・。

 会館の活用、再生を求め、芸術・文化関係者らが署名活動を始めた。耐震工事をして大ホールを復活させ、ダンスの稽古場やアトリエ、古本図書館、地下街には民謡酒場やラーメン横町を設けた「にぎわい創造センター」にしようと提案する。

 中高年の人向けにスポーツができる施設があってもいいなぁと思うし、誰もが集まるような会館になったら。
 体がしんどくて、昨年末も点滴打って仕事してました。常連さんが9割。帰りがけに次の予約をされるので、急なお客さんは断るくらい予約がいっぱい。「店やめたら、わしら『散髪浪人』になるやんか」と言うお客さんには、「死ぬまで仕事せんといかんのか」と言い返してます。でも、来てくれるお客さんにご迷惑をかけるわけにはいきませんから。

【にぎわい創造センター案/3万4千人賛成署名】

 県議会で継続審査になっている滋賀会館(大津市京町3丁目)の廃止問題で、県内の文化関係者らでつくる「滋賀会館の再生を願う会」は28日、現在の建物を改修し「(仮称)にぎわい創造センター滋賀会館」として再生させるアイデアを嘉田由紀子知事に提案。提案に賛成する3万4千人分の署名簿も出した。

 提案は、築55年が経過した建物を「独特のカーブをした壁面を含め、全体が信楽焼のタイルで文化財的価値がある。地域の資産だ」と評価。「耐震工事に5億円、壊すにも5億円かかると言われるが壊したら何も残らない」とし、県庁前のにぎわいを取り戻す「新たな文化発信地」を目指そうと呼びかけた。

 一方、県はこの日、文化施設としての用途廃止を決めた経過についての説明会を来月9日に開くと発表した。廃止の決定にあたり「県民との対話不足」を指摘されているためで、県の県民文化生活部長らが出席し参加者と意見交換する。

 説明会は、滋賀会館4階の文化実習教室で午後3時から4時半まで。参加希望者は来月4日までに、住所と名前、電話番号を記し、県民文化課(FAX077・528・4960)へ事前に申し込む。

ドラマ「不毛地帯」ロケ地のビル、来館者急増

小矢部市出身で伊藤忠商事元会長、瀬島龍三をモデルにしたテレビドラマ『不毛地帯』(フジ系、毎週木曜日)のロケ地となった富山市の「富山電気ビルデイング」が脚光を浴びている。

 これまで少なかった若者の来館者が増え、結婚披露宴会場としても注目されている。電気ビルは「これほどのPRになるとは」と思わぬ波及効果に驚いている。

 電気ビル本館はコンクリート製5階建て。1936年、日本海電気(現北陸電力)本社移転に際し、レストランやホテル、大ホールを備えた総合ビルとして建設された。45年の富山空襲で一部を焼失したが、修復され、富山県庁、旧大和富山店、富山大橋とともに、同市街地に残る数少ない戦前建築物の一つ。マストに見立てたライト塔や円窓など「船」をモチーフにしたデザインで、タイル張りの壁や細かい装飾が施されたしっくいの天井などが特徴だ。

 周辺に多数のホテルが開業した影響で74年にホテル営業は終了したが、現在も宴会部屋やレストラン、約375平方メートルの大ホールを備えている。

 ドラマは山崎豊子の同名の長編小説が原作で昨年10月にスタートした。主人公のモデルとされる瀬島は元陸軍参謀で、シベリア抑留から帰還して伊藤忠商事会長を務めた。

 昨年8、11月のロケをきっかけに一日約400~500件だったホームページ閲覧数は、現在約2万件に急増。観光目的の来館者も増え、「撮影に使われたのはどの部屋か?」などの問い合わせも寄せられている。

 ドラマを見た若年層の関心が高まったことで、2003年まで約20年間ゼロだった電気ビルでの披露宴が09年度には25件に。09年度の婚礼関連の売り上げは1月半ば時点で、既に前年度から35%も伸びている。

 電気ビルは、レトロな内外装や、そばを市電が走る立地条件が「時代設定にふさわしい」と評価され、全国200か所からロケ地に選ばれた。

 野上勝彦支配人は「ロケ地に選ばれたのは偶然で、縁を感じる。不況でビル全体の収入が減る中で、思わぬ救世主となってくれた。今後も大切に整備しながら、欧州の建造物のように200年、300年と残していきたい」と話した。

(2010年1月28日20時20分 読売新聞)

富山電気ビル来館者が急増

小矢部市出身で伊藤忠商事元会長、瀬島龍三をモデルにしたテレビドラマ『不毛地帯』(フジ系、毎週木曜日)のロケ地となった富山市の「富山電気ビルデイング」が脚光を浴びている。これまで少なかった若者の来館者が増え、結婚披露宴会場としても注目されている。電気ビルは「これほどのPRになるとは」と思わぬ波及効果に驚いている。

 電気ビル本館はコンクリート製5階建て。1936年、日本海電気(現北陸電力)本社移転に際し、レストランやホテル、大ホールを備えた総合ビルとして建設された。45年の富山空襲で一部を焼失したが、修復され、県庁、旧大和富山店、富山大橋とともに、同市街地に残る数少ない戦前建築物の一つ。マストに見立てたライト塔や円窓など「船」をモチーフにしたデザインで、タイル張りの壁や細かい装飾が施されたしっくいの天井などが特徴だ。

 周辺に多数のホテルが開業した影響で74年にホテル営業は終了したが、現在も宴会部屋やレストラン、約375平方メートルの大ホールを備えている。

 ドラマは山崎豊子の同名の長編小説が原作で昨年10月にスタートした。主人公のモデルとされる瀬島は元陸軍参謀で、シベリア抑留から帰還して伊藤忠商事会長を務めた。

 昨年8、11月のロケをきっかけに一日約400~500件だったホームページ閲覧数は、現在約2万件に急増。観光目的の来館者も増え、「撮影に使われたのはどの部屋か?」などの問い合わせも寄せられている。

 ドラマを見た若年層の関心が高まったことで、2003年まで約20年間ゼロだった電気ビルでの披露宴が09年度には25件に。09年度の婚礼関連の売り上げは1月半ば時点で、既に前年度から35%も伸びている。

 電気ビルは、レトロな内外装や、そばを市電が走る立地条件が「時代設定にふさわしい」と評価され、全国200か所からロケ地に選ばれた。

 野上勝彦支配人は「ロケ地に選ばれたのは偶然で、縁を感じる。不況でビル全体の収入が減る中で、思わぬ救世主となってくれた。今後も大切に整備しながら、欧州の建造物のように200年、300年と残していきたい」と話した。

(2010年1月28日 読売新聞)

港区が保存、活用方針 内田祥三が設計 旧国立保健医療科学院

東京大安田講堂などを手掛けた建築家内田祥三が設計した旧国立保健医療科学院(港区白金台)の建物について、所有する港区は、保存を前提に活用していく方針を固めた。耐震診断の結果、補強工事で耐震性が確保できると判断した。二十三日、地元で開いた住民説明会で明らかにした。(松村裕子)

 区はこの建物を、がん患者の在宅緩和ケア支援センターなどとして、二〇一三年度の供用開始を目指す。

 建物は一九三八(昭和十三)年に国立公衆衛生院として完成。鉄骨鉄筋コンクリート、地下二階、地上五階、塔屋三階、延べ約一万五千平方メートル。高さは三十六メートル。茶色のスクラッチタイル張りで内田独自のゴシック風。隣接した東大医科学研究所と調和した外観。階段教室や研究室があり、建設当時のシャンデリアやドアが残っている。

 外観は、内田が先に設計した安田講堂をはじめとする本郷キャンパスの建物群と似ているが、本郷では左右対称に建物が配置されているのに対し、白金台では科学院と研究所は向きが異なっており、内田の新しい試みがみてとれる。

 区は、科学院跡地を昨春、区立小学校跡地と交換で国から譲り受けた。本年度の耐震診断で、補修の必要があるが、鉄筋やコンクリートの強度に問題はないと判明。戦災を免れた数少ない昭和初期の建物で、日本の先端医療機関だった歴史をもつことから、文化財として保存しながら活用する方針を固めた。

 説明会では、「文教地区の白金を象徴する建物で、区内に住んだゆかりの建築家の作品でもある」とも解説。緩和ケア支援センターを開設しても、半分以上スペースは空くため、活用法について住民を含めて検討し、改修工事を進める予定。先だって二月には建物の見学会を開く。

 <公衆衛生院> 1938年に発足した厚生省の付属機関。公衆衛生の研究と技術員の養成に当たった。2002年の組織統合で保健医療科学院になり、拠点を埼玉県和光市に移した。

 <内田祥三> 1885~1972年。東京生まれで、東大建築学科卒業。東大教授として本郷キャンパスや白金台の施設を設計。戦前に東大総長を務めた。自ら設計した区内の自宅から公衆衛生院を眺めて悦に入ったとの話が伝わる。

思い出残そう タイルアート 今春閉校の久井高3年制作

生徒数の減少から3月末で閉校となる三原市久井町の県立久井高校(境垣内(さかいがいち)隆雄校長)で、最後の3年生全20人が、「学校生活の思い出を形に残そう」と、タイルアート作品「キズナ~校章~」(90センチ四方)の制作に取り組んでいる。生徒らは、3年間の母校での日々を胸に刻みながら仕上げの作業を進めている。作品は3月6日の卒業式と閉校式で披露される。

 卒業生らは、2年生の美術の授業で作った、約1万本のマッチ棒を17人で張り合わせ、色と凹凸だけで校舎を表現した作品「ありがとう学び舎(や)」が、県美展で入選したことが大きな自信となったことから、「全員で作品を作り、学校への感謝の気持ちを伝えよう」と共同制作を決めた。

 10月に作業を開始。作品が大きいため、縦18センチ、横22・5センチの石版20枚に分割して進め、最後に石版をつないで完成させる。生徒らは白、赤、緑のタイルを細かく砕き、石こうなどで固めて張り付けている。2年生の時に美術教師として県美展の出品作品を指導した、県立世羅高校非常勤講師の高橋里子さん(37)(世羅町)も応援に駆けつけ、生徒と一緒に放課後も作業を続けている。

 姉(20)も同高の卒業生という西迫奈津希さん(18)は「入学時にはあまり思い入れが強くなかった校章ですが、みんなで作っていると、県美展で入賞したことや文化祭で歌った思い出など色々なことがよみがえってきます」としみじみと語る。最後の野球部員として、07年夏の県大会に出場した湯村貴洸さん(17)も「先生や先輩、地域の人にお世話になった気持ちを作品を通して表したい」と意気込んでいる。

 同高によると、作品は卒業式と閉校式で披露された後、市に寄贈する案も出ている。閉校式では、記念碑の除幕式や地域住民による民謡なども予定されている。

■メモ

県立久井高校 1933年(昭和8年)に私立の公民中学として創設。組合立久羽坂青年学校を経て、48年に県御調農業高校久羽坂分校に。78年4月の本校移管で現在の名称となった。志願者数減少を受け、2007年7月に募集停止が決定。卒業生は記録が残る1948年以降だけで2218人に上る。

(2010年1月22日 読売新聞)

みやざき喜業人:宮崎高砂工業社長・仙台洋さん /宮崎

◇逆転の発想で新製品--仙台洋さん(67)
 1947年秋、秋田県に台風が上陸した。近くの川の堤防は決壊し、濁流が家々をのみ込んだ。

 「あれ、僕の家なの?」

 避難所から戻ってきた仙台少年の目に映ったのは、汚泥をかぶって朽ち果てたわが家だった。こんなにもたやすく家は壊れてしまうのか。

 あの時見た光景が、今の仕事への情熱となっているのかもしれない。

 高校卒業後、岐阜県の高砂工業に入社。タイル、茶わんなどを焼く炉の製造会社だった。事業拡大のため瓦の製造も始め、70年には県誘致企業として「宮崎高砂工業」を都城市内に新設、工場長として赴任した。

 れんがを製造し始めたころ、一つの試みが社運を変えた。規格外の瓦を粉状(シャモット)にして、れんがの粘土に混ぜたのだ。

 瓦のひび割れのクレームが端緒だった。冬場、瓦内に染みた水分が凍って体積が膨張することでひび割れは起こる。瓦やれんがの粘土は焼くことで水分が蒸発し、粒子レベルでの密度はより濃くなる。これが水気の進入を防ぐと考えられていたが、それでも瓦は割れた。ならば密度を求めるより、意図的に水が入りやすい空間を作ってやろうという逆転の発想だった。

 シャモットを混入して焼いたれんがは、内部に極めて細かな空間を作った。水は入りやすくなったが、逆に自然蒸発で出やすくもなった。

 「寒さに強いれんがを作ることは、結局、耐久性に優れたれんがを作ることにつながったんです」

 この手法で産廃れんがを次々に開発。廃棄物を使った「ECOれんが」は焼却灰、シラス、工場汚泥などを2~5割混入させる。環境れんがは、やがて主力商品になった。

 経営者として、「会社は大きな家だし、守らなければ」という。社員の家族が誕生日を迎えれば、メッセージカード付きの花を送る。社員の笑顔が何よりもうれしい。【小原擁】

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 ■メモ

 ◇宮崎高砂工業
 70年10月、都城市山之口町に設立。社員は34人。主力商品は瓦、れんが。瓦製造のノウハウを生かし96年に瓦くず、最終処分場の汚泥などを混ぜた循環型リサイクルれんがを開発。産廃物を利用して学校、公園などのまち作りに利用されている。01年に「グッドデザイン賞2001」、09年度の県「頑張る中小企業」にも選ばれた。

「東リ タイルカーペット」にエコマーク認定商品を追加

■東リ

 環境に配慮した商品を求める声に応じ、従来品をグリーン購入法適合品からエコマーク認定商品へ切り替え、「GA-8600EM」「GX-2200EM」の2品種2柄18アイテムを新たに発表。これにより同ブランドのエコマーク認定商品は全7品種8柄128アイテムに拡充され、多様化する用途に対応する。

 バッキング材の一部にタイルカーペット廃材から100%還元する「リサイクルシート」を採用し、再生材料比率25%(重量比)を実現。また、パイル糸の一部にリサイクルナイロン糸を使った。防汚・制電・防炎機能も備えており、安心と快適さを併せ持つ空間づくりをサポートする。

 いずれも1平方メートル当たり8700円(税別)。販売中。TEL06・6494・6605

火のない暖炉

家族や友人が集まってくつろぐリビングにあったらいいなと思うもの、それは暖炉。湿度が高くじめっと冷えるリマの冬も、暖炉があれば暖かく過ごせる。街の骨董(こっとう)品店に行けばおしゃれな火かき棒や暖炉専用の細いシャベルが売られており、道具自慢で会話が弾むことも。また赤々と燃える炎のそばで一人静かに読書をしていると、薪のパチパチと弾ける音に釣られ、一人、また一人と家族が集まってきて、楽しいだんらんが始まるのだ。

 一方、暖炉の設置はそう簡単なことではない。床や壁に耐熱性のタイルを張ったり、換気のため排気口や煙突を取り付けたりしなければならないのだ。一戸建てなら比較的設置も容易だろうが、アパート、特に中層階の場合は何かと制限もあって設置は難しいだろうと思っていた。

 そうした話を知人にしたところ、なんと簡易暖炉をプレゼントしてくれた。つぼのような形をしたシンプルな素焼きの暖炉だが、大きさも手ごろで小さな部屋でも圧迫感なく置ける。排気の問題を解決しなければならないが、いつかはぜひこの簡易暖炉に薪をくべ、暖かな空間にお客様をお招きしたいものだ。

 人々を魅了してやまない暖炉の最大の悩みといえば、掃除である。一戸建てに住むような家庭ならばメード任せで問題ないが、煙突掃除から灰の処理など、暖炉の掃除は想像以上に大変だ。また薪代もそう安くはなく、経済的な暖房器具とは言えない。友人カルメラの家にも暖炉があるが、「結局あんまり使ってないの」と自嘲(じちょう)気味。家族の写真や小物を置く、雰囲気のある飾り棚として使われている。

 それでもやはり、人々は暖炉のあるリビングに集まってくる。赤々と燃える炎だけでなく、懐かしい思い出の詰まった写真や大切な置物が、暖炉を囲む人々の心を暖かく包み込んでくれるのだから。

交通標識からみえる行政の無駄はなくならいのか

【PJニュース 2010年1月13日】JANJANニュース2009年8月24日付け写真記事「この交通標識、ほんとに必要?」で指摘したが、昨年夏、宮崎市の中心市街地に、歩行者と自転車の通行を区分する交通標識が設置された。しかし、設置場所によっては逆に通行の妨げになるのではないかと心配していたが、その心配が的中した。自転車による標識への接触事故をきっかけに、標識の設置から半年もたたないうちに、国土交通省宮崎河川国道事務所は一部地域でこれらの交通標識を撤去してしまった。果たして、この交通標識は本当に必要だったのだろうか。

歩道上における歩行者と自転車の錯綜(さくそう)などにより、歩行者と自転車が接触する事故は、最近10年間で約4.8倍に増加している反面、自転車は排気ガスや騒音を出さず、地球温暖化対策としても大いに期待できる交通手段である。

しかし、自転車走行空間(約7万9000Km)のほとんどは、歩行者と自転車が混在する自転車歩行者道となっている。歩行者と自転車が分離された自転車道等の整備延長距離は、約2500Kmと、全体のわずか約3%である。

そこで、2008(平成20)年1月、国土交通省と警察庁では、全国98カ所に「自転車通行環境整備モデル地区」を設置し、自転車道・自転車専用通行帯(自転車レーン)等の歩行者と分離された走行空間を、概ね2年間で戦略的に整備することとなった。目標は、「欧米並みの自転車先進都市の形成」である。日本における自転車先進都市とされている名古屋市でも、自転車道ネットワークはパリの1割程度である。

このような中、宮崎県では日向市と宮崎市が、自転車通行環境整備モデル地区に指定された。

宮崎市では、既存の自転車歩行者道を、歩道と自転車専用通行帯に分けるために、橘通り、高千穂通り、橘通りを南に進んだ橘橋南詰からの中村通りなどに、今回問題となった歩行者と自転車の通行を区分する交通標識が設置された。

多くの人でにぎわう繁華街では、既存の自転車道が整備されているので、特にトラブルになるようなことはないが、人通りの少ない中村通りでは、カラー化されているものの歩道と自転車専用通行帯の区別は、路面にペイントされた1本のラインだけである。そのライン上に歩行者と自転車の通行を区分する交通標識が無骨に立っているのである。

Machi-BBSの九州掲示板内の宮崎市のスレッドでも、この標識が設置された頃からこの問題が取り上げられていた。その声をいくつか紹介する。

・交差点同士が非常に近いところでは、5メートル間隔くらいで標識が立っているところがある。まあ、ひどいのなんのって。

・ほんとに中村通りの区分標識は邪魔だし、危険。非常に狭い間隔で立っており、必要性に疑問を感じる。

・支柱が目立たなくて昼でも危ないのに、夜間は更に危険!ケガ人が出る前に早く撤去すべきだ!

宮崎市中村地区の住民からの苦情などもあったのだが、実際に接触事故が起きてしまったことで、国土交通省宮崎河川国道事務所は1月8日までに、この地区に設置した27本の交通標識を撤去したことを、地元紙・宮崎日日新聞が伝えた。

1月11日の午後に現場へ向かうと、標識があった場所には真新しいカラータイルが埋め込まれていた。この標識がなくなったことで、歩道及び自転車道はとてもすっきりしていた。これで接触事故も起きないだろう。

モデル地区として、歩行者と自転車の通行をスムーズに行うために設置した交通標識が、逆に接触事故を誘引してしまったことは大きな問題ではないだろうか。

国の事業仕分けの対象になっていれば、間違いなく「必要なし」という判断が下されるであろうこの事業。標識1本あたりの設置費は、約6万5000円である。撤去された地区だけでも27本あり、設置費用は約175万5000円。さらに今回、これらの標識を撤去したわけなので、撤去費用も余計にかかったことになる。これらはすべて国民の税金である。

地元紙に取り上げられたことで、今回のことを知った市民も多いだろうが、ひっそりと撤去されただけに、行政の対応が問われる。どうしてこのような無駄なことばかりやってしまうのだろうか。

地元紙に対して同事務所は、「設置環境に問題があった。利用状況などを把握し、安全に考慮すべきだった」と話しているが、お役人的な発想で、馬鹿な話である。国土交通省だけではなく警察庁と合同で行っている事業だけに、その有効性はどのくらいあるのか、はなはだ疑問である。

全国にモデル地区を設置する前に、霞ヶ関のお役人のみなさんが自転車を積極的に利用し、まずは、国の機関が集中している東京都で実施したほうが良いのではないだろうか。

この世の中、いや、国が行っている事業の中には、まだまだ無駄なものがあると考える。政府・与党は、この3月から再び事業仕分けを行う予定にしているようだが、国民からも「このような事業は必要ない」と思われる事業を出してもらうようなシステムはできないものだろうか。【了】

X JAPAN ハリウッド殴り込み 世界初!映画の聖地でPV撮影

【ロサンゼルス=江川悠】人気ロックバンド「X JAPAN」が9日(日本時間10日)、ハリウッド中心地の複合商業施設「ハリウッド&ハイランド」の屋外特設ステージで、新曲「Jade」(発売未定)など4曲のプロモーションビデオ(PV)の公開撮影を行った。映画の祭典「アカデミー賞」の授賞式で知られるコダック・シアターも入る同施設内でアーティストがパフォーマンスを行うのは世界初。6日にロサンゼルス市内のスタジオでスタートした撮影は、14日まで同市内数カ所で総制作費5億円をかけて行われる。

◆制作費5億円をかけLA縦断
 映画の街に、ロックバンドとして“殴り込み”をかけるのが、いかにもXらしい発想だった。映画スターのサインなどが刻まれたブロックタイルで有名なチャイニーズ・シアターなどが並ぶハリウッド大通り。その中心地にある巨大施設の4階部分(高さ20メートル)に幅10メートル、奥行き10メートルの野外ステージが特設された。

 Xは1992年、海外進出を目標に「X JAPAN」に改名。97年に一度解散したが、07年に再結成し、アジア各地で念願の海外公演も実現させた。だが、08年に予定されていたニューヨーク公演が現在も無期限延期となっており、米国でメンバーがそろってファンの前で曲を披露するのは初めてだ。

 この日は、昨年5月にギタリストのSUGIZOが加入後初の新曲「Jade」のほか、海外ファンに向けて「I.V.」「ENDLESS RAIN」「Rusty Nail」のPV新バージョンの一部となるライブ風景を収録。98年に死去したギタリストHIDEさんの愛用ギターもステージに添えられた。

 ステージは底が透明になっており、その一部は約10メートルにわたって大通り上空に張り出している。片側2車線の道路をそれぞれ1車線ずつ規制し、撮影用の大型クレーンやレーザー光線を上空に照射するマシンを設置。上空で旋回するヘリもステージにライトを照射するなど、映画にも劣らない圧巻の演出だった。

 ドラムのYOSHIKIは昨年7月に持病の首ヘルニアを悪化させ、手術した。今も安静が必要だが、黒く塗ったコルセットを首に巻き、ドラムプレーを“強行突破”。また、ボーカルTOSHIも昨年秋に肋間(ろっかん)神経痛を患い、声が出にくい症状を訴えていたが、この日は伸びのある歌声を夜空に響かせた。

 地上1階の大型モニターにはステージの映像が映し出され、米国内や日本から駆けつけたファンがペンライトで「X」の文字を作りながら歓声を上げたり、楽曲の大合唱でメンバーを激励。午後4時から9時半の撮影中に、約8000人が会場に足を運んだ。

◆いろいろあった
 自ら総合プロデューサーとなってPV構想に着手したYOSHIKIは10日(日本時間11日)、ロサンゼルス市内の自宅で日本メディアの合同インタビューに応じ、前日の撮影について振り返った。

 「(ロサンゼルスの)ダウンタウンを見ながら『ENDLESS RAIN』を演奏したらジーンときて、涙が出てきちゃった。夢は追っていけばかなうものだと思いました」

 小学生の時、同級生のTOSHIとともにバンドを結成し、千葉県館山市民センターで初めてライブを開いてから約30年。ついにハリウッドのど真ん中に立った。

 「あそこまで行くまで大変だった。TOSHIとの関係とか、HIDEとの関係とか…。いろいろあったから感極まりますよね」

 こう話すと、YOSHIKIはサングラスの奥からこぼれ出る涙をぬぐった。HIDEの死、TOSHIとの確執、そして解散…。破滅へ向かっていたバンドが息を吹き返し、大きな目標だった全米進出を実現させた喜びはひとしおだった。

 今後は、延期となっているアメリカ、フランス公演の実現に向けて努力するとともに、アルバム制作のため、新曲のレコーディングに入るという。さらに、YOSHIKIは8月6-8日に米シカゴのグラントパークで開催される野外ロックフェスティバル「ロラパルーザ」への出演依頼が来ていることも明かした。

 「ロシアやドイツからも写真入りアルバムを送ってきたりして、(ファンが)世界中に広まっている。夢みたいですよ。ガラスのように飛び散ってしまう瞬間の美学じゃなくて、続ける美学もあるのかな」

 体はボロボロになっても、世界中にファンがいる限り、YOSHIKIは夢を追い続ける。