記憶をたずねて  被爆建造物から

県立広島第二中学校(現・広島観音高校)プール

広島市立観音小学校(西区観音本町)の校庭の一角、ケヤキやヒマラヤスギが茂る「観音の森」に、数字が書かれた石が約40メートルにわたって埋め込まれている。かつてこの場所にあった県立広島第二中学校(現・広島観音高校)のプール取り壊し後、記念に飛び込み石などが残されたものだ。

 同中の校庭に、コンクリート造りの巨大なプールが完成したのは、1933年9月。同中の生徒や教職員だけで、測量や設計から、資材の運搬やタイル張りまですべての作業を行い、作り上げた。長さ50メートル。当時、県内で唯一の日本水上競技連盟(現・日本水泳連盟)公認プールで、南側にはスタンド席も設けられ、県内の主要な水泳大会はほぼすべて行われた。

 学校近くに住んでいた会社経営竹内章さん(76)(西区観音本町)は水泳が得意だった。小学生の頃、大会の選手に選ばれ、練習のために同中のプールに通った。「最初は深さに驚いたけど、大きなプールで泳げるのがうれしかった」と話す。練習後には、先生から温かい砂糖湯をもらえたといい、「甘い物が手に入らない時期だったので、それが楽しみで一生懸命泳いだよ」と笑った。

 しかし、45年4月に同中に入学した時安惇さん(77)(南区旭)はプールの思い出を、「入学した時から水はあったが、泳いだ記憶はない。すでに防火水槽として利用されていたのでは」と振り返る。

 爆心地から約2キロにあった同中の周辺は、原爆で焼け野原となった。木造2階建ての校舎は、爆風と火災で全壊、敷地の北西にあったコンクリート製の講堂も屋根が崩れ落ち、壁も大きく傾いた。当時、同中近くにあり、二つに大きく裂けたクロガネモチの木(1989年に現・観音小学校の校庭に移植)には、幹の表面にガラスが刺さったとみられる無数の傷が残る。

 生徒たちが手作りしたプールには、多くの市民が水を求めて殺到したという。同中の生徒や教職員の被害について詳細な記録は残っていないが、爆心地近くで建物疎開中だった1年生343人は全員死亡した。

 戦後、同中は県広島観音高となり、西区南観音町に移転。跡地には広島市立観音小学校が置かれた。プールは戦後も児童の水泳記録会などの会場として利用されたが、老朽化などから95年に取り壊された。

 竹内さんは、学校移転前の1年間、水泳部員として同プールを利用した。「(プールが使える)夏の2か月間だけ、大会のたびに大歓声が響き渡る、あこがれの場所でした」

(文・岡田浩幸、写真・宇那木健一)

 県立広島二中は1922年創立。広島市西区観音本町にあった校舎は原爆で全壊し、生徒、教員ら約350人が亡くなった。終戦後は、海田、廿日市、可部の分教所に分かれたが、46年11月に元の場所に戻った。48年に県広島芸陽高、翌49年に県広島観音高と改称。50年に、現在の西区南観音町に移った。

(2010年2月14日 読売新聞)

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