旧大津公会堂:伊料理店など、テナント4店に /滋賀

中心街のにぎわい拠点として4月下旬にリニューアルする旧大津公会堂(大津市浜大津1)について、大津市はこのほど、テナントとして本格イタリア料理店など4店の開店が決まったと発表した。価格帯は昼食で平均1500円前後から、夕食は平均4000円からと周辺よりやや高めだが、建物の知名度もあり観光拠点の一つになりそうだ。

 1954年完成の同建物はタイル張りの装飾的な外観から市民の人気も高く、近く景観重要建造物に登録される見込み。昨夏から市が改装していた。

 4店は、ワインと地中海料理の店「CANTINETTA GMT」▽創作料理店「大津グリル」▽市内外の異業種間の協力による近江牛専門店「モダン・ミール」▽イタリア料理店「Ristorante LAGO」。それぞれ30~45席ほど設け、最も遅い店は午前0時ごろまで営業するという。同市都市再生課は「観光客を湖岸から中心街に引き込むことができれば。周辺はオフィスも多く平日の需要も高いはず」と話している。【稲生陽】

側壁タイル散乱、照明消え3時間通行止め 関門トンネル

15日午後3時50分すぎ、北九州市門司区の関門国道トンネルで「壁のタイルが落ちている」と西日本高速道路(NEXCO西日本)に通行車両から連絡があった。同社が調べたところ、上り車線の左側壁の陶器製タイルパネル(長さ180センチ、幅60センチ)が4枚落ちて散乱していたほか、照明用ケーブルが7カ所切断され、上り線の照明が約200メートルにわたって消えていた。同トンネルは復旧まで約3時間、全面通行止めになった。門司署は大型車が当て逃げしたとみて道交法違反容疑で調べている。

 NEXCO西日本と門司署によると、現場は門司料金所から山口県下関市側へ1.8キロの地点。タイルパネルは高さ約3メートルの部分で約6メートルにわたってはげ落ち、その手前の側壁にも約6メートルにわたり車体でこすられたような傷があった。照明用ケーブルは高さ約3.7メートルの所に設置されていたが、留め金部分から引きちぎられたようになっていた。

 復旧作業中、車両は関門橋に迂回(うかい)した。

記憶をたずねて  被爆建造物から

県立広島第二中学校(現・広島観音高校)プール

広島市立観音小学校(西区観音本町)の校庭の一角、ケヤキやヒマラヤスギが茂る「観音の森」に、数字が書かれた石が約40メートルにわたって埋め込まれている。かつてこの場所にあった県立広島第二中学校(現・広島観音高校)のプール取り壊し後、記念に飛び込み石などが残されたものだ。

 同中の校庭に、コンクリート造りの巨大なプールが完成したのは、1933年9月。同中の生徒や教職員だけで、測量や設計から、資材の運搬やタイル張りまですべての作業を行い、作り上げた。長さ50メートル。当時、県内で唯一の日本水上競技連盟(現・日本水泳連盟)公認プールで、南側にはスタンド席も設けられ、県内の主要な水泳大会はほぼすべて行われた。

 学校近くに住んでいた会社経営竹内章さん(76)(西区観音本町)は水泳が得意だった。小学生の頃、大会の選手に選ばれ、練習のために同中のプールに通った。「最初は深さに驚いたけど、大きなプールで泳げるのがうれしかった」と話す。練習後には、先生から温かい砂糖湯をもらえたといい、「甘い物が手に入らない時期だったので、それが楽しみで一生懸命泳いだよ」と笑った。

 しかし、45年4月に同中に入学した時安惇さん(77)(南区旭)はプールの思い出を、「入学した時から水はあったが、泳いだ記憶はない。すでに防火水槽として利用されていたのでは」と振り返る。

 爆心地から約2キロにあった同中の周辺は、原爆で焼け野原となった。木造2階建ての校舎は、爆風と火災で全壊、敷地の北西にあったコンクリート製の講堂も屋根が崩れ落ち、壁も大きく傾いた。当時、同中近くにあり、二つに大きく裂けたクロガネモチの木(1989年に現・観音小学校の校庭に移植)には、幹の表面にガラスが刺さったとみられる無数の傷が残る。

 生徒たちが手作りしたプールには、多くの市民が水を求めて殺到したという。同中の生徒や教職員の被害について詳細な記録は残っていないが、爆心地近くで建物疎開中だった1年生343人は全員死亡した。

 戦後、同中は県広島観音高となり、西区南観音町に移転。跡地には広島市立観音小学校が置かれた。プールは戦後も児童の水泳記録会などの会場として利用されたが、老朽化などから95年に取り壊された。

 竹内さんは、学校移転前の1年間、水泳部員として同プールを利用した。「(プールが使える)夏の2か月間だけ、大会のたびに大歓声が響き渡る、あこがれの場所でした」

(文・岡田浩幸、写真・宇那木健一)

 県立広島二中は1922年創立。広島市西区観音本町にあった校舎は原爆で全壊し、生徒、教員ら約350人が亡くなった。終戦後は、海田、廿日市、可部の分教所に分かれたが、46年11月に元の場所に戻った。48年に県広島芸陽高、翌49年に県広島観音高と改称。50年に、現在の西区南観音町に移った。

(2010年2月14日 読売新聞)

衛生陶器(3) 2強のルーツは名古屋

Q 衛生陶器はどう発展してきたんだろう?

 A 日本トイレ協会などによると、すでに紀元前2200年ごろのメソポタミア文明には、人が横並びで使う共同の水洗トイレがあったようだ。陶製便器が本格的に出始めたのは18世紀後半の産業革命以後で、主要国で最初に特許登録されたのは1775年の英国だ。実際には、特許制度が遅れていた仏のほうが先んじて開発が盛んだったともいわれる。便器が初めて上下水道と直結したのは1850年、ロンドンでのことだったそうだ。

 Q なぜ日本で世界的なメーカーが育ったの?

 A 江戸時代まで便器は木製だった。しかし、瀬戸や常滑など伝統的な窯業の基盤があったところに、明治に入って起業家が近代的な窯業を始め、衛生陶器産業の礎を築いた。立役者の一人は森村市左衛門。1904年、名古屋で日本陶器合名会社(現ノリタケカンパニーリミテド)を設立し、欧州式の近代工場を建設して白色磁器を米国に輸出した。17年には衛生陶器部門を分離して東洋陶器(現TOTO)を設立、森村の親族の大倉和親が社長に就いた。24年には大倉が出資してタイルや陶管を作る伊奈製陶(現INAX)を設立、会長になった。

 Q TOTOとINAXは「親類」なの?

 A 経営は独立していたが、INAXが01年にトステムと統合するまで、同じ森村グループだった。とはいえ、技術や価格を競い、日本メーカーの力を高めてきた。1978年の福岡大渇水、2005年の京都議定書発効などは節水型便器の開発を進める契機になった。清潔さに対する日本人のこだわりも、発展の原動力になったそうだよ。

走り出せ“自転車の街”へ 県内各市、中心地に専用道計画

自転車が利用しやすい道路環境の整備を進める自治体が県内で増えている。環境に負荷が大きい自動車に比べ自転車は排ガスを出さない。ペダルをこぐのは少し大変だが、良い運動ともいえる。広い駐車場がないためにマイカー族の足が遠のいた商店街に、ママチャリ族が戻ってくるかもしれない。中心街の活性化、エコと健康維持-自転車の街づくりには“一石三鳥”の期待がこもる。

 富士市蓼原町の潤井川大橋。片側2車線道路の両側の歩道には、タイルの色で区別された幅約2メートルの自転車専用の通行帯がある。日中は、買い物に行く主婦や登下校の高校生らが自転車で行き交う。

 富士市は2010年度に「自転車ネットワーク整備計画」を策定。安全に走ることができる道路を吉原商店街や富士本町商店街など市内の要所に張り巡らせる事業に乗り出す。現在は潤井川大橋など一部にしかない自転車専用の通行帯や、自転車と歩行者が十分にゆとりを持って通行できる歩道などをつなげて整備する方針だ。

  □   □

 一世帯当たりの自動車保有台数は1・6台と全国の自治体でも上位の富士市。幹線道路は渋滞が目立つ。高齢ドライバーが起こす交通事故も1997年から9年間で2・7倍に増えた。また、大規模駐車場を備えた郊外のショッピングセンターや量販店がにぎわうのに対して、旧来の商店街はシャッター街化し、中心商業地の魅力は低下の一途だ。

 市はマイカーなしでも住宅地と商店街を容易に往来できる環境を整備することで、車の利用を抑えるとともに、旧来の商業地区の活性化を図る。車の代替手段として、バスなどの公共交通とともに自転車に着目した。

 整備計画の有効性を検証するため、まずは14年度までに潤井川大橋を含む市道約2・5キロに自転車が安全に走れるスペースを設ける。その後に両端を延長し、17年度までに吉原商店街-富士本町商店街間の約4・5キロを結ぶ計画。放置自転車が増えないよう、マナー向上のための施策も今後、検討する。

  □   □

 静岡市や沼津市も自転車が安全に走れる環境づくりに熱心だ。両市ではそれぞれ、08年1月にJR清水駅と沼津駅の周辺道路が国土交通省の自転車通行環境整備モデル地区に選ばれ、ともに09年度中に整備を終える予定。浜松市は、市役所北側で主に登下校の高校生の利用を想定した自転車走行空間を整備する方針だ。 (富士通信部・林啓太)

安く改装、住みたい街へ

雑誌や不動産会社の調査で「東京で住みたい街ナンバーワン」といわれる吉祥寺(武蔵野市)でも、工夫次第で抑えめの価格で快適に住むことができるかも――。英国の生活や住宅事情などの著書が多い雑誌編集長の井形慶子さんが、500万円で手に入れた老朽マンションを改装した体験記を本にまとめた。(菅野みゆき)

 井形さんはこれまでに1千万円台で英国風の自宅を吉祥寺に新築し、家について考える著書も多い。今回は「老朽マンションの奇跡」(新潮社、税別1500円)にまとめた。
 今回は撮影スタジオ兼倉庫兼社員の住宅として、08年秋に低層マンションの1部屋を購入。駅徒歩8分、築35年、メゾネット式、借地権付きの45平方メートルだった。建築当初は近代的な建物だったようだが、壁や床は黒ずみ、流し台はさびだらけ、浴室のガス給湯器は巨大で、排水管にも不安があった。

 だが、ゆったりとした空間や風通しの良さ、窓から見える吉祥寺の風景などが気に入ったという。この物件を500万円で手に入れ、改装を始めた。

 まず、日頃つきあいのある不動産業者の紹介で老朽物件の経験豊富なリフォーム業者を選んだ。床材や壁紙は一番安いものを選び、システムキッチンは展示品を探してもらい、費用を200万円に抑えた。照明やエアコンは自分で買って持ち込んだ。一方で、模造暖炉を壁にあしらったり、台所もれんがのタイルを使うなどして英国風の雰囲気を出すにことにだわった。

 とはいえ、老朽化が激しい共同住宅。工事開始後も、排水管が使えなかったり、湿気を吸ってなかなか浴室のモルタルが乾かなかったり、次々と問題が発生。だが、井形さんは解決のために業者と話し合う努力を惜しまず、09年春に理想の部屋を作り上げた。

 改装には手間や費用の心配もつきまとう。また、耐震基準を満たした物件かどうかも見極めないと危ない。

 「デフレ時代のいま、住みたい街をあきらめていた人には好機」という井形さんだが、「老朽物件を自分の思い通りに変えることが楽しいと思える人でないと無理。地元で評判がよく、物件を購入する時に一緒に見てくれるような業者を選ぶことが重要です」とアドバイスもしている。

存続揺れる滋賀会館

【地下街、今や「原点」の3軒に】

 文化施設の廃止問題で揺れる大津市京町3丁目の滋賀会館地下で、花谷泰良さん(65)は30年、お客さんの髪を整えてきた。父親の代から続く滋賀会館理髪室。かつて結婚式場や図書館、商店が並んだ会館は、地域の生活を支える場でもあった。しかし、地下街の店は今や3軒。「仕方ないんかなぁ」。時の流れを見つめつつ、「でもやめられない。お客さんに迷惑かけられん」と、はさみを動かす。(新井正之)

【父親から店引き継ぎ30年/散髪屋さんの憂い】

 「会館ができるまで、店は県庁の1階にあって、父が職員や議員さんの頭を刈っていた。会館が建ち、結婚式場ができるというので、まず理髪店、美容店、写真店の3軒が地下街に入ったんです。」

 滋賀会館は1954年に開館。約1100席の大ホールでは数多くの芸術文化イベントが催され、図書館や結婚式場などもあった。

 開館当時の地下街は露店のように店が並び、狭い通路に人があふれるようなにぎわい。ネクタイ買って、散髪して、ついでに写真を撮って。そんなお客さんの流れがあったねぇ。その後、各店がブースに収まる形になり、何となくお客さんがのぞきにくくなった気がします。
 父から店を継いだのが30年前。そのころは県庁の職員も昼休みに来てたけど、今は減りましたねぇ。

 びわ湖ホールなど新たな文化施設が増え、舞台が狭く音響でも引けを取る会館大ホールの利用は減少。耐震強度の問題も加わり、08年秋に閉鎖された。地下街も07年に飲食店が消え、08年には花屋や魚屋など4店が店を閉めた。

 みんな突然、『来月で出ていくわ』とあいさつに来られて。「えーっ」と驚いてばかり。残ったのは最初から入っている3軒。原点に戻ったってとこです。

 県は今年度で会館を廃止する方針を打ち出した。廃止の対象はシネマホールなどの文化施設。商店はまだ営業を続けられる。会館の活性化策が決まった時点で方針を検討するとしている。

 去年3月、店の1年更新をした時、県の担当者から「このままいて結構」と言われてます。「出るときは言うべきこと言わな」というお客さんもいますけど、建物が古くなったのは仕方ないかなぁ、とも思うし・・・・。

 会館の活用、再生を求め、芸術・文化関係者らが署名活動を始めた。耐震工事をして大ホールを復活させ、ダンスの稽古場やアトリエ、古本図書館、地下街には民謡酒場やラーメン横町を設けた「にぎわい創造センター」にしようと提案する。

 中高年の人向けにスポーツができる施設があってもいいなぁと思うし、誰もが集まるような会館になったら。
 体がしんどくて、昨年末も点滴打って仕事してました。常連さんが9割。帰りがけに次の予約をされるので、急なお客さんは断るくらい予約がいっぱい。「店やめたら、わしら『散髪浪人』になるやんか」と言うお客さんには、「死ぬまで仕事せんといかんのか」と言い返してます。でも、来てくれるお客さんにご迷惑をかけるわけにはいきませんから。

【にぎわい創造センター案/3万4千人賛成署名】

 県議会で継続審査になっている滋賀会館(大津市京町3丁目)の廃止問題で、県内の文化関係者らでつくる「滋賀会館の再生を願う会」は28日、現在の建物を改修し「(仮称)にぎわい創造センター滋賀会館」として再生させるアイデアを嘉田由紀子知事に提案。提案に賛成する3万4千人分の署名簿も出した。

 提案は、築55年が経過した建物を「独特のカーブをした壁面を含め、全体が信楽焼のタイルで文化財的価値がある。地域の資産だ」と評価。「耐震工事に5億円、壊すにも5億円かかると言われるが壊したら何も残らない」とし、県庁前のにぎわいを取り戻す「新たな文化発信地」を目指そうと呼びかけた。

 一方、県はこの日、文化施設としての用途廃止を決めた経過についての説明会を来月9日に開くと発表した。廃止の決定にあたり「県民との対話不足」を指摘されているためで、県の県民文化生活部長らが出席し参加者と意見交換する。

 説明会は、滋賀会館4階の文化実習教室で午後3時から4時半まで。参加希望者は来月4日までに、住所と名前、電話番号を記し、県民文化課(FAX077・528・4960)へ事前に申し込む。

ドラマ「不毛地帯」ロケ地のビル、来館者急増

小矢部市出身で伊藤忠商事元会長、瀬島龍三をモデルにしたテレビドラマ『不毛地帯』(フジ系、毎週木曜日)のロケ地となった富山市の「富山電気ビルデイング」が脚光を浴びている。

 これまで少なかった若者の来館者が増え、結婚披露宴会場としても注目されている。電気ビルは「これほどのPRになるとは」と思わぬ波及効果に驚いている。

 電気ビル本館はコンクリート製5階建て。1936年、日本海電気(現北陸電力)本社移転に際し、レストランやホテル、大ホールを備えた総合ビルとして建設された。45年の富山空襲で一部を焼失したが、修復され、富山県庁、旧大和富山店、富山大橋とともに、同市街地に残る数少ない戦前建築物の一つ。マストに見立てたライト塔や円窓など「船」をモチーフにしたデザインで、タイル張りの壁や細かい装飾が施されたしっくいの天井などが特徴だ。

 周辺に多数のホテルが開業した影響で74年にホテル営業は終了したが、現在も宴会部屋やレストラン、約375平方メートルの大ホールを備えている。

 ドラマは山崎豊子の同名の長編小説が原作で昨年10月にスタートした。主人公のモデルとされる瀬島は元陸軍参謀で、シベリア抑留から帰還して伊藤忠商事会長を務めた。

 昨年8、11月のロケをきっかけに一日約400~500件だったホームページ閲覧数は、現在約2万件に急増。観光目的の来館者も増え、「撮影に使われたのはどの部屋か?」などの問い合わせも寄せられている。

 ドラマを見た若年層の関心が高まったことで、2003年まで約20年間ゼロだった電気ビルでの披露宴が09年度には25件に。09年度の婚礼関連の売り上げは1月半ば時点で、既に前年度から35%も伸びている。

 電気ビルは、レトロな内外装や、そばを市電が走る立地条件が「時代設定にふさわしい」と評価され、全国200か所からロケ地に選ばれた。

 野上勝彦支配人は「ロケ地に選ばれたのは偶然で、縁を感じる。不況でビル全体の収入が減る中で、思わぬ救世主となってくれた。今後も大切に整備しながら、欧州の建造物のように200年、300年と残していきたい」と話した。

(2010年1月28日20時20分 読売新聞)

富山電気ビル来館者が急増

小矢部市出身で伊藤忠商事元会長、瀬島龍三をモデルにしたテレビドラマ『不毛地帯』(フジ系、毎週木曜日)のロケ地となった富山市の「富山電気ビルデイング」が脚光を浴びている。これまで少なかった若者の来館者が増え、結婚披露宴会場としても注目されている。電気ビルは「これほどのPRになるとは」と思わぬ波及効果に驚いている。

 電気ビル本館はコンクリート製5階建て。1936年、日本海電気(現北陸電力)本社移転に際し、レストランやホテル、大ホールを備えた総合ビルとして建設された。45年の富山空襲で一部を焼失したが、修復され、県庁、旧大和富山店、富山大橋とともに、同市街地に残る数少ない戦前建築物の一つ。マストに見立てたライト塔や円窓など「船」をモチーフにしたデザインで、タイル張りの壁や細かい装飾が施されたしっくいの天井などが特徴だ。

 周辺に多数のホテルが開業した影響で74年にホテル営業は終了したが、現在も宴会部屋やレストラン、約375平方メートルの大ホールを備えている。

 ドラマは山崎豊子の同名の長編小説が原作で昨年10月にスタートした。主人公のモデルとされる瀬島は元陸軍参謀で、シベリア抑留から帰還して伊藤忠商事会長を務めた。

 昨年8、11月のロケをきっかけに一日約400~500件だったホームページ閲覧数は、現在約2万件に急増。観光目的の来館者も増え、「撮影に使われたのはどの部屋か?」などの問い合わせも寄せられている。

 ドラマを見た若年層の関心が高まったことで、2003年まで約20年間ゼロだった電気ビルでの披露宴が09年度には25件に。09年度の婚礼関連の売り上げは1月半ば時点で、既に前年度から35%も伸びている。

 電気ビルは、レトロな内外装や、そばを市電が走る立地条件が「時代設定にふさわしい」と評価され、全国200か所からロケ地に選ばれた。

 野上勝彦支配人は「ロケ地に選ばれたのは偶然で、縁を感じる。不況でビル全体の収入が減る中で、思わぬ救世主となってくれた。今後も大切に整備しながら、欧州の建造物のように200年、300年と残していきたい」と話した。

(2010年1月28日 読売新聞)

港区が保存、活用方針 内田祥三が設計 旧国立保健医療科学院

東京大安田講堂などを手掛けた建築家内田祥三が設計した旧国立保健医療科学院(港区白金台)の建物について、所有する港区は、保存を前提に活用していく方針を固めた。耐震診断の結果、補強工事で耐震性が確保できると判断した。二十三日、地元で開いた住民説明会で明らかにした。(松村裕子)

 区はこの建物を、がん患者の在宅緩和ケア支援センターなどとして、二〇一三年度の供用開始を目指す。

 建物は一九三八(昭和十三)年に国立公衆衛生院として完成。鉄骨鉄筋コンクリート、地下二階、地上五階、塔屋三階、延べ約一万五千平方メートル。高さは三十六メートル。茶色のスクラッチタイル張りで内田独自のゴシック風。隣接した東大医科学研究所と調和した外観。階段教室や研究室があり、建設当時のシャンデリアやドアが残っている。

 外観は、内田が先に設計した安田講堂をはじめとする本郷キャンパスの建物群と似ているが、本郷では左右対称に建物が配置されているのに対し、白金台では科学院と研究所は向きが異なっており、内田の新しい試みがみてとれる。

 区は、科学院跡地を昨春、区立小学校跡地と交換で国から譲り受けた。本年度の耐震診断で、補修の必要があるが、鉄筋やコンクリートの強度に問題はないと判明。戦災を免れた数少ない昭和初期の建物で、日本の先端医療機関だった歴史をもつことから、文化財として保存しながら活用する方針を固めた。

 説明会では、「文教地区の白金を象徴する建物で、区内に住んだゆかりの建築家の作品でもある」とも解説。緩和ケア支援センターを開設しても、半分以上スペースは空くため、活用法について住民を含めて検討し、改修工事を進める予定。先だって二月には建物の見学会を開く。

 <公衆衛生院> 1938年に発足した厚生省の付属機関。公衆衛生の研究と技術員の養成に当たった。2002年の組織統合で保健医療科学院になり、拠点を埼玉県和光市に移した。

 <内田祥三> 1885~1972年。東京生まれで、東大建築学科卒業。東大教授として本郷キャンパスや白金台の施設を設計。戦前に東大総長を務めた。自ら設計した区内の自宅から公衆衛生院を眺めて悦に入ったとの話が伝わる。